お風呂の歴史
ぶんたの露天風呂〜テーマパーク〜トップへ
公衆浴場の発祥
平安時代(今から800年前の西暦1200年頃)場所は、奈良に
公衆浴場と呼ばれるものが、あった。それが、公衆浴場の発祥。
そして、時代が鎌倉時代、室町時代となり、鎌倉や京都に町湯と呼ばれる
湯屋ができた。
この時代、お金持ちは、自分でお風呂を持ち、貧乏な公家さんが、
町湯に入りに行ったということが言い伝えられている。
銭湯の発祥
現在の銭湯の原型となる公衆浴場の発祥は、江戸時代の少し前、
今から409年前。天正19年江戸の銭瓶橋(ぜにがめばし)に
伊勢与一(いせのよいち)という人が、湯屋を開業したのが、
銭湯の発祥とされている。
この銭瓶橋は、今の東京の呉服橋と常磐橋の中間あたりにあり、
橋を掛ける工事の際に、永楽銭の入った瓶が掘り出され、
この名が付いたとされている。
与一風呂が、江戸銭湯文化の発祥で、まだ、蒸し風呂であった。
日本の風呂文化では、サウナ風呂の方が、歴史が古いのである。
江戸時代前の江戸は、荒れ果てた荒野で、そこで開業するのは、
極めて至難であった。しかし、徳川家康が江戸に幕府を開くにあたり、
この荒れ果てた荒野を整備し始め、人がどんどん江戸入りする
ようになり、それと共に、湯屋も段々増えてきた。
やがて、江戸時代の銭湯へとなっていく。
江戸時代の銭湯
江戸時代初期から末期まで殆どが、蒸し風呂であったそうだ。
その名も【戸棚風呂】と呼ばれていて、混浴の風呂であった。
当時、上士屋敷や家老老舗以外は湯殿を持たず、下男下女、番頭や
小僧のたぐいは、銭湯へ行くのが、当たり前であった。
この江戸時代の銭湯【戸棚風呂】は、蒸し風呂の一種で、
膝を浸すくらいの湯を入れての半身浴。
それで、上半身を湯気で蒸すという仕掛である。
当初は、浴室の出入り口に、引き違いの戸を付けて、
湯気の漏れを防いでいたが、完璧ではなかったので、
湯舟の前を天井から板戸で深く覆った、その名も【ざくろ口】
という方法が、考え出された。
このざくろ口と名前の由来は、ざくろの実に含まれる酢が、
鏡を磨くのに使われていた事から、「鏡鋳る:かがみいる(かかんで、入る)」
という洒落から生まれた言葉らしい。
江戸名物のざくろ口
この江戸の名物のざくろ口は、中が真っ暗で、入る時は、
「枝が触ります。」とか、いちいち声をかけて入らなければならず、
中にいる人も、咳ばらいをして、存在を知らせたそうな…。
また、一方では、入れ込みの湯と呼ばれた混浴だったので、
暗さにまぎれて、悪さもひどかったそうです。
現在の様な完全に湯に浸かる様になるのは、17世紀初頭の
慶長年間の末期に、【据え風呂】という名で登場する。
慶長年間発祥の据え風呂
慶長年間に、江戸の町に今までの蒸し風呂とは異なり、
首まで、浸かる現在の風呂の原型となる据え風呂(すえぶろ)
がお目見えした。
湯を入れて入るので、当時【水風呂】とも呼ばれていたそうな…。
この据え風呂は、当初は、湯を桶の中に入れる組み込み式であったが、
暫くして、桶の中に鉄の筒を入れて、下から加熱する方法が取られ、
近世の風呂に近づいたのであります。
この風呂は、鉄砲風呂と呼ばれていました。
ちなみに、この頃、関西では、五右衛門風呂が主流だったのであります。
社交場と化した慶長年間の銭湯(湯女登場)
江戸の町に銭湯がどんどん増え、やがて、庶民の社交場となってゆきます。
そして、この頃から、殆どの湯屋に湯女(ゆな)が置かれ、
昼間の入浴客の垢流しをしておりました。
そして、夜ともなると、一般の入浴客を断り、身支度を整え、
脱衣場を座敷に代えて、湯女達は、三味線片手に遊客を待ったと言われている。
そんな慶長年間の花形産業化した湯屋は、繁盛して2階を増築するところも
多くなり、やがて、殆どの湯屋が2階建てとなりました。
この2階は、囲碁などを置いて、茶など飲めるサロンとして、
使われました。
湯女を遊郭吉原へ強制移動。(天保年間)
繁盛を極めた湯屋へこの頃、江戸幕府から禁令が発せられます。
【1湯につき、湯女は、3人まで。】これは、湯女が風俗を乱すとの
幕府の見解でありますが、なかなか励行されず、
ついに幕府は、湯女風呂を強制撤去し、仕事にあぶれた湯女達を
遊郭吉原に強制移動させたのであります。
この時代は、天保年間(てんぽうねんかん)で、大飢饉の時代
でもありました。
明治と元号が変わり…、近世の風呂登場
慶応4年9月8日、大政奉還により明治と改元されました。
それと共に、明治新政府により、銭湯の改善がなされます。
というのは、江戸時代末期まで続いた混浴の風習が、
在日外国人によって、「不倫の風習あり…」と記述された為です。
その為、江戸、大坂、横浜でいち早く混浴の禁令が出されました。
さて、明治に入り、東京市内に再生温泉なるものが誕生、
大いに賑わいました。
これは、温泉地から原湯を運んできて加熱したものです。
また、それと同時に浴槽を流し場の床面に対し、平坦になる様に
改良してゆきます。
この頃から、長く使われていた『ザクロ口』の撤廃が、
盛んにすすむようになります。
また、江戸時代から男客に開放されていた湯屋の2階は、
変わらず、クラブとして開放されていましたが、
明治15年頃までに全面廃止、『ザクロ口』については、
明治30年までに廃止されたのであります。
最後に残った『ザクロ口』の風呂は、
東京の日本橋トラ横町の柳湯という風呂屋でした。
明治時代の銭湯
明治に入ってからの銭湯は、湯槽、縦横10尺強(約3m)。
深さ、4尺(約1.2m)。
流し場は2〜3間(約3.6〜5.4m)。
男女の浴槽は、別となります。
男湯は、午前6時〜7時の間に湯屋の屋根に旗が揚がり、
これが沸いた合図。これを確認して、湯銭を番台に投げ…、
あとは、ご想像の通り、今の銭湯と全く同じです。
中で、くっちゃべる者あり、下手くそな歌を長々と歌う
迷惑者あり…とまあこんな感じです。
女湯はというと、土間に下駄の音を立てて入り、
番台に湯銭を置き、きものを脱ぎながらのご挨拶。
流し場では、立て膝して下湯を使い、三合の小ぬかや鶏卵等を
使って約2時間かけての長湯だったそうで、風呂あがりに
白粉を塗り、鏡台の前で髪を整え、衣帯をつけ襟袖を正して、
湯屋をあとに街中へと…。
の〜んびりとした明治の情景が浮かんで参ります。